なんと、ドゥルーズ+ガタリの、しかも「アンチ・オイディプス 資本主義と分裂症」の文庫が出ました。宇野邦一訳で河出文庫。上下巻です。
昔は市倉宏祐訳で、思いっきり重たい本でした。
今日、多くの日本人は、管理と自由のほぼベストバランスを保っているつもりになっていることでしょう。それは本当なのか。そして世の中にはこのバランスの外にいるマイノリティーたちが存在しているのではないか。
ほとんどの日本人に実感としては意識されていないであろう、管理と自由の問題について、「アンチ・オイディプス」から「狂気の歴史」(フーコー)、「帝国」(ネグリ+ハート)、「ホモ・サルケ」(アガンペン)等々と読み進んでいくのも、知的山脈を制覇する楽しみかと思います。
とりあえず、上巻をご紹介。
しばらく、哲学シリーズになりそうな・・・。
化石燃料の代替として「穀物」が注目を浴びるなか、各穀物の高騰。それが、発展途上と評価される国々で重大な食料問題に繋がるという現象。
「環境問題」だなんだかんだと言っても、ちっとも「地球に優しい」訳ではなさそうです。それ以前に人間に手厳しい。
事態の深刻さに鈍感なのは「資本主義」の本質が分かっていないからではないか?と、思っています。だから、なるべく早く、これを読むつもりでいます。
そういえば、ぼくは自分が「管理と自由のほぼベストバランスを保っている」ということを考えたことがありませんでした。
こちらもありがとうございます。
建築における「管理と自由」などというのも気になります。日本古来の建築が、少なからず自然との一体という要素を持っていたとするなら、西洋建築(現在の日本の家も)は自然を支配したり、拒絶したという形での、「自然による人間の管理からの脱却と、自由の獲得」であったように思います。
そうして私達は、真冬であっても床暖房で常夏の気分を味わう「自由」を得ました。これはつまり「自由」を獲得するために、納得のうえで建築という新しい「管理」を受け入れたわけです。
このことは一見、「自由」と「管理」の正常なバランスの獲得に見えますが、本当にそうなのだろうか・・・。
ドゥルーズ、フーコー、ガタリ、ネグリらの読み直し作業は、僕にとって新しい「建築」という媒介を通して、とてもエキサイティングに進んでいます。(今の心境は、住居に玄関なんていらないぞ! みたいな感じです)
今度また、建築について教えてください。
「建築」という単語から、ぼくは「隠喩としての建築」(柄谷行人著)を思い出します。ぼくは、この人の読み直しをしなければならないと思っています。個人的に。